ヨセフ [信仰]

聖書は、三位一体の神様の業を記した書物です。なので、聖書の主人公は、三位一体の神様です。でも、主人公の業が記されているだけでは、聖書は、イスラエル民族の宗教書物で終わってしまうでしょう。聖書は、三位一体の神様の太古から現代に至るまでずっと続いている人類救済の壮大な記録であり、神様が現在も働き続けている証書でもあります。神様は、その業を完成させるために、要所要所に、人を用いられました。その一人が、主イエスの父親の役割を担ったヨセフです。

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ヨセフは、マタイ福音書とルカ福音書の最初の部分にしか登場しませんし、彼は、一言も喋らないのです。その代わりに、彼は、主の天使の言葉を聴き、それに徹底的に従いました。ヨセフは、自らの感情や思い付きで行動せず、主から受けた言葉を傾聴し、行動する人でした。ヨセフが、主の言葉を無視し勝手な行動をしたなら、主イエスは、この人間の世界に存在出来なかったでしょう。ヨセフの記述は、エジプトからイスラエルに戻り、ガリラヤの町ナザレに住むところで終わり、それ以降記されていません。なので、聖書の中では、比較的小さな脇役の一人だったと言えるかも知れません。でも、彼は、主イエスの誕生に大きな役割を果たしました。小さな脇役であっても、その役割を徹底的に果たした人物の一人が、ヨセフです。

主人公だけがクローズアップされ大活躍し、他の登場人物の行動が、ほんの僅かな記述で終わっている物語なんて、面白くありません。脇役がその役割を十分に果たしてこそ、主人公の存在や行動が、正しくクローズアップされるのです。

神様の業の完成の為に、神様が必要とされた脇役達を、意識したいと思います。また、僕に与えられた役割が何であるかを理解し、その役割を十分に果たせる自分でもありたいと思います。勝手な判断と勝手な行動をしない為には、祈りが欠かせません。キリスト者の生涯は、祈りの連続なのです。

arata

礼拝にて [信仰]

今朝、少し調子が良かったので、某教会の朝礼拝に出席しました。本当は、在籍教会の礼拝に出席するべきなのですが、前回、在籍教会の礼拝に出席した時、礼拝堂の扉を開けた時に倒れてしまって、一寸今日は、敬遠。
今朝、出席した教会の礼拝で、牧師さんが次のような説教をして下さいました。

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マタイ福音書6章34節<だから、明日の事まで思い悩むな。明日の事は、明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。>

人は、大抵、自分には明日が与えられていると思っていますが、そんな保証はありません。此処に書かれている<明日の事まで思い悩むな>を、<明日の事を今日悩まず、明日の事は明日悩め>と読んでしまいがちだけど、この<明日>は、自分に与えられている<明日>ではありません。この<明日>は、神様を例えているのです。
今日、貴方が思い悩める分量は、今日一日の分だけで精一杯。本当は、明日の事まで悩める余裕など無いのです。<明日の事は、明日自らが思い悩む>とは、神様が、貴方の明日の事を考えて下さると言う事なのです。自分は、明日の事まで悩めると言う思い込みは、無意識に自分を神様に仕立ててしまう惧れがあるのです。自分のキャパシティをを弁え、神様に任せる姿勢を、この文章は、読む人に問うているのです。

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確かに、明日、自分が生きていると言う保証はありません。それならば、今日の御仕事にきちんと取り組む事に専念する方が、良いと思います。<明日>を思って<今日>を疎かにしてはならないのです。
人は何らかの荷物を背負って生きていくものですが、荷物は軽い方が、歩きやすいのは確かですね。今日背負う荷物をちゃんと背負って、目的地に運んだら、それで、今日の御仕事は、終わり。それで十分なのだ、今日の説教を聴いて、そう思いました。

また、自分の思い込みで聖書を読むと、それが規律になってしまう事も、気付かされました。

神様の御旨を常に問いながら聖書を読み、礼拝に出席する事の大切さを、改めて感じた一日でした。

arata

ある告白 [信仰]

先週、余りにも苦しくなったので、在籍教会の牧師館に電話を掛けました。主任牧師は外出中だったらしく、電話を取って下さったのは、副牧師(主任牧師の女性パートナー)でした。

開口一番<死にたいです>と言いました。副牧師は、<何故?>と問い返しました。僕は、<もう生きる力がなくなったからです。もう息をするだけでも、苦しいのです>と答えました。彼女は、<貴方は全力で、生きてこられたのね>と言いました。

僕は、副牧師に、今年の1月頃に自殺をする積りだった事を告げました。彼女はそれを聴いて、<貴方は死の準備をしている時、どんな気持ちだったの?>と問いました。僕は、<今まで精一杯生きてきたのだから、もうこれで死んでも悔いは無い。苦しいと言うより、嬉しい気持ちでした>、そう答えました。彼女は、それを聴いて<良かった。貴方は、感謝を持って死の準備をしたのね>と言いました。それから、彼女は<でも、今貴方は生きている。貴方を生きさせたのは何なの?>と問いました。僕は、<人との出会いだったり、僕に掛けて貰った言葉だったり、です>と答えました。

それから、色んな事を話し合いました。<今、貴方の頭に思い浮かんだ言葉は何ですか?>と彼女は問いました。僕は、<天の下の出来事には、定められた時がある。誰でもキリストにあるならば、その人は新しくされたのである。見よ、古いものは過ぎ去った。全てが新しくなったのである。この二つです>と答えました。

僕は、副牧師に、<僕が、教会に行く理由は唯一つ、礼拝を捧げる為です。神様に感謝し、神様に赦して頂き、イエス様に執り成して頂いて、神様と繋がらせて頂く。それだけです>と言いました。彼女は、<神様の創造物は皆、神様を讃美するのですよ。貴方は、その為に教会に来られるのね。それを聴いて、私は、嬉しく思います>と言いました。僕は、<いつでも、僕は、神様に感謝しているわけではありません。でも、精一杯、神様に意識を向ける事をしています。全力で、讃美をします。だから、礼拝中、何度も倒れたのです>、そう答えました。

僕は、副牧師に<僕が死んだら、お葬式をして頂けますか?>と訊ねました。すると、彼女は、<ええ、勿論。貴方の死を大切にします。安心して下さい>と答えて下さいました。

副牧師との会話の終わりの方で、僕は、<僕が自分で命を絶ち、神様の裁きの場に立つ時、「神様、僕は、貴方が僕に与えて下さった命を、自分で潰しました。神様、御免なさい。赦して下さい。」と言えるようになりたいです>と言いました。それを聴いた副牧師は、<貴方の色んなお気持ちを伺ったけれど、私は、このように感じています。貴方は、既に新しい血、新しい身体、新しい生命、新しい信仰の先取りをしているのですよ。>と言いました。僕は、彼女の言葉を理解出来ませんでした。今も、理解出来ていません。

副牧師に、僕の気持ちを聴いて頂いて、良かったと思います。楽になったわけではありませんし、死にたい気持ちが無くなったわけでもありませんが、安心出来たからです。

arata

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