Bonne Anee [雑感]

私達は、2011年を今日迎えました。年月を経るごとに、平和への思いが薄れていくような事件・事故が世界中で頻発しています。自分の人生を終わらせたいと言う理由で、他人の存在を殺傷する、セクシュアリティが法律に触れると言う理由で、死刑を執行する、御洒落を名目に、手触りの良い毛皮を持つ動物を殺傷する。3秒に一人の割合で、病気に罹った子供たちが死んでいく、武力を抑止する為にそれに勝る武力を備える…眼にも入れたくない、耳にも入れたくない事が世界中で行われている現代の世界。人間だけでなく小さな生命にも尊厳がある事を、頭の片隅に置くだけでも、今よりは、平和に近付けるでしょう。人間のエゴが世界を混沌に陥らせる事だけは、人間の真の誇りと責任で、回避させなければなりません。

今から数年前、テゼ共同体のブラザー・ロジェが精神を患った女性に殺された時、次のような言葉を言い残して逝かれたそうです。<祈り続けなさい> 祈りの不思議な強さと力を知るキリスト者は、祈り続けなければなりません。私も祈りたいと思います。<主の平和が全世界に齎されますように!!>



Bellini の<Norma>の<Casta Diva>を聴きながら、平和の尊さを噛み締めたいと思います。

arata

ヨセフ [信仰]

聖書は、三位一体の神様の業を記した書物です。なので、聖書の主人公は、三位一体の神様です。でも、主人公の業が記されているだけでは、聖書は、イスラエル民族の宗教書物で終わってしまうでしょう。聖書は、三位一体の神様の太古から現代に至るまでずっと続いている人類救済の壮大な記録であり、神様が現在も働き続けている証書でもあります。神様は、その業を完成させるために、要所要所に、人を用いられました。その一人が、主イエスの父親の役割を担ったヨセフです。

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ヨセフは、マタイ福音書とルカ福音書の最初の部分にしか登場しませんし、彼は、一言も喋らないのです。その代わりに、彼は、主の天使の言葉を聴き、それに徹底的に従いました。ヨセフは、自らの感情や思い付きで行動せず、主から受けた言葉を傾聴し、行動する人でした。ヨセフが、主の言葉を無視し勝手な行動をしたなら、主イエスは、この人間の世界に存在出来なかったでしょう。ヨセフの記述は、エジプトからイスラエルに戻り、ガリラヤの町ナザレに住むところで終わり、それ以降記されていません。なので、聖書の中では、比較的小さな脇役の一人だったと言えるかも知れません。でも、彼は、主イエスの誕生に大きな役割を果たしました。小さな脇役であっても、その役割を徹底的に果たした人物の一人が、ヨセフです。

主人公だけがクローズアップされ大活躍し、他の登場人物の行動が、ほんの僅かな記述で終わっている物語なんて、面白くありません。脇役がその役割を十分に果たしてこそ、主人公の存在や行動が、正しくクローズアップされるのです。

神様の業の完成の為に、神様が必要とされた脇役達を、意識したいと思います。また、僕に与えられた役割が何であるかを理解し、その役割を十分に果たせる自分でもありたいと思います。勝手な判断と勝手な行動をしない為には、祈りが欠かせません。キリスト者の生涯は、祈りの連続なのです。

arata

I Puritani [音楽]

このブログでは、主に古楽やヒストリカル・ダンスに就いて書いていますけど、それ以外にも大好きな分野があります。それは、19世紀前半に書かれた所謂<Belcanto Opera>です。Callas が生前述べていた通り、実際<Belcanto Opera>と言うOpera は存在しません。19世紀前半に書かれたOpera は、Cavatina・Cabaletta形式で書かれたOpera と言って良いでしょう。作品は、その形式で書かれたAria・Duetto が各所に散りばめられ、それらは、様々な装飾技巧で彩られます。物語は、Recitativo で進められますが、そのRecitativo もまた魅力的です。19世紀前半のOpera でRecitativo が上手く語られなければ、その作品の魅力の大半は損なわれます。

最近良く聴く19世紀前半のOpera は、V.Bellini が1935年にParis で発表した<I Puritani di Scozia>です。物語は、17世紀前半のイングランド西南端にあるプリマス近郊で起こった王党派と清教徒の争いを背景に、繰り広げられる王党派の騎士Arturo と清教徒の総司令官の娘Elvira の緊張感を孕んだ恋物語です。<I Puritani>と言えば、ヒロイン役Elvira が歌う<Son vergin vezzosa>や<Qui la voce~Vien,diletto,in ciel la luna>がクローズアップされていますが、Elvira 以外の主要登場人物にも、良い音楽が与えられていますし、1幕のアンサンブル・フィナーレは、Verdi 中期に匹敵するぐらいのエネルギッシュな音楽を聴く事が出来ます。まだ未聴の方には、是非一度、聴いて頂きたい作品です。この作品の物語の詳細や音楽に就いては、この作品の録音に付帯してあるブックレットをお読み下さい。

先月、昨年Bologna のIl Teatro Comunale で上演された<I Puritani>を収録したDVDを購入しました。

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お目当ては、最近表現力に深みを増し、レパートリーを広げつつあるJ.D.Florez でしたが、聴き進める内にこの上演で使われているエディションに、興味が移りました。1幕5場で展開されるArturo・Riccardo・Enrichetta のTerzettoは、通常版では略ArturoとRiccardoのDuetto ですが、この版では、この3人によるれっきとしたTerzettoを聴く事が出来ます。このTerzettoは、各人の感情を吐露するもので、充実した音楽が与えられ、非常に聴き応えがあります。このお蔭で、Enrichetta の役の比重が、通常版よりも、重くなっていると言う事が解ります。資料によれば、Belliniが初演直後にカットしたナンバーだそうです。また、3幕3場のフィナーレでElvira がRondo<Ah,sento o mio bell'angelo>を歌う事が、最近では慣習的になっていますが、このRondo が、Arturo とElvira のDuettoになっています。このRondo も、初原稿では、ArturoとElvira のDuetto なのだそうです。他にも、様々な削除された部分が再現されているらしく、このクリティカル・エディションは、恐らくパリ初演版に最も近いエディションなのでしょう。このエディションを使用したBologna に於ける公演は、パリ初演版に最も近い演奏と考えられます。エディションも興味深かったですが、勿論、演奏も見事なもので、指揮者のMariotti の采配の許、Florezを筆頭に、出演者全員が、好唱・好演を披露してくれました。正しく<素晴らしい!>の一言でした。





19世紀前半に初演されて、現在までその生命を保ち続けている作品であっても、その多くは、時と共に、ナンバーの削除・原調からの移調・不明の作曲者による曲の挿入・歌手のヴァリアンテ等が施されて、原型から掛け離れた作品になってしまいました。その原型が大きく改変されてしまった作品の代表は、Donizetti のMaria Stuarda でしょう。

このように、原型を取り戻すクリティカルエディションの作業は、困難も伴いますが、作品に付着した塵芥を洗い落とし、作品を瑞々しい姿に再生させる貴重な作業だと思います。これからも、この様な作業によって多くの19世紀前半の作品が、再生する事を望みます。

arata

LAVA [音楽]

以前の記事でも取り上げたSimone Kermes の<LAVA>と言うCD を購入しました。

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このCD は、18世紀ナポリ派の作曲家(彼等がナポリに住んでいたとは限りません。18世紀の西ヨーロッパで圧倒的に支持を得ていたオペラがナポリ派様式で書かれた作品だったからです)の書いたオペラのアリア集です。





以前の記事でも書いたように、彼女の歌唱は、起伏に富んでいます。楽譜に書かれている音の並びを、綺麗に整える事に、彼女は固執しません。彼女が或るフレーズや言葉の表現に必要性を感じるなら、話し声に近い声を歌声に交える事もします。勿論、徹底的にレガートでも歌う事もしていますが、静的な歌でも、ディナミークや音色を微妙に変化させて、歌に彩りを与えています。彼女の歌唱は、音楽や言葉が要求する表現を直截にリアライズしていると、僕は感じました。

彼女の声自体は、やや痩せ気味で、声の響きの幅も狭いですが、聴いている内に、18世紀の歌手の声は、若しかすると、彼女のような声だったのではないか、また歌い方も、彼女の歌い方に近いものだったのではないかと思えてきました。Kermes は、18世紀の発声法や表現法を研究しているのかも知れませんね。

現代の発声技術と表現法で、18世紀以前の音楽を表現するのも、勿論、認められて良いと思いますが、Kermes のように、当時の技術や表現法に近付こうとする姿勢で18世紀の音楽を表現するのも、貴重な事と思います。

また一人、大切な音楽家が増えました。

arata

M.Callas の即興演奏の才能 [音楽]

Callas の歌唱を、YouTube で色々探していたら、非常に興味深い歌唱を見つけました。それは、1950年にRoma で行われた Rossini のオペラ<Il Turco in Italia>(この公演は、20世紀初演となりました)の一幕で歌われる Donna Fiorilla のCavatina <Non si da follia maggiore>です。Donna Fiorilla は、Callas にとって、それ迄手掛けた事のない役でしたが、まるで既に彼女のレパートリーとなっていたかの様な、見事な歌唱・演技を披露したそうです。

この公演の指揮者 Gavazzeni が一幕の Cavatina の終わりに Cadenza を入れるかどうかを Callas に訊ねたら、彼女はCadenza を入れる希望を、彼に伝えました。Callas は、指揮者やコレペティトゥールに任せず、彼女自身でこの Cadenza を作ったそうです。リハーサルの間に作った筈ですから、殆ど即興的に作ったと思われます。下の画像がその歌唱です。



Rossini 研究が、大きく進んでいる現在の視点から見れば、この Cadenza に疑問を持たざるを得ませんが、1950年という時代を考えれば、これはこれで凄い歌唱だと、僕は思います。

<再現芸術の世界であっても、真の天才的芸術家は創始的でもある>と、S.Galatopoulos が述べていますが、Callas はその代表的存在の一人でしょう。この様な歌唱を聴くと、益々、芸術家 M.Callas に惹きつけられてしまいます。

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<Sextet of Lucia di Lammermoor >と<Pearly Shells>の関係 [音楽]

僕は、中学生の頃から19世紀前期の<Lirica italiana> 所謂<Belcanto Opera>に惹かれ続けています。その時代のオペラを中心に作品を書いた作曲家で最も興味と魅力を感じる作曲家は、G.Rossini ですが、その後に続くV.Bellini ・G.Donizetti・G.Pacini にも惹かれています。

この時代には多くの作品が作られましたが、その大半は短命でした。その中で現代まで絶える事なく上演され続けた作品は、真の傑作と判断して良いと思います。その筆頭に挙げられる作品は、G.Donizetti が1835年にNapoli で発表した<Lucia di Lammermoor>でしょう。<Lucia>と言えば、<狂乱の場>が有名ですが、この他にも、名曲が多くあります。その一つが第二部第一幕第二場の後半で歌われる<Sextet>です。



<Lucia>は、ヨーロッパだけでなくアメリカでも非常に愛好された作品の一つです。オペラハウスのある都市は、ニュー・ヨークだけではありませんでしたから、アメリカのオペラハウスの在る都市で、この作品は上演され続けました。その都市の一つが、アメリカ西海岸の大都市サン・フランシスコです。サン・フランシスコのオペラ愛好家で、<Lucia>を知らない人は居なかったでしょう。多分、幾つかのメロディを口ずさむ人も居たと思います。そのメロディの一つが、この<Sextet>です。このメロディが太平洋を超え、ハワイに伝わり、ビリー・ヴォーン楽団の演奏で有名になった<Pearly Shells>の元歌になったと、以前ある本で読みました。



聴き比べてみると、確かに似ているような気もします。<Pearly Shells>は、ハワイの土着民謡ではないと思いますし、その本の記述も、一寸眉唾ものかも知れませんが、可也深刻な内容のオペラ・セリアの或るメロディが、民謡・軽音楽に影響を与えたと言う事は、面白い現象だと思います。

この他にも、クラシック音楽が民謡や軽音楽の元曲になったと言う例が在れば、教えて頂きたく存じます。

arata

In einer kleinen Konditorei(小さな喫茶店で) [音楽]

僕は、19世紀末から20世紀初期に作られた通俗音楽を、結構好んでいます。このジャンルの音楽は、今で云うポップスや歌謡曲に当たるものですが、そのジャンルの音楽とクラシック音楽の差がそんなに広くないと言うのが、その理由です。

最近、僕の頭の中で繰り返し響いているのが、<In einer kleinen Konditorei(小さな喫茶店で)>と言う曲です。ドイツ語の歌謡曲(歌詞E.Neubach 曲F.Raymond)ですが、タンゴのリズムで作られています。中々洒落ていて、聴いていて和みます。



日本にこの曲が紹介されたのは、1935年。瀬沼喜久雄氏によって、歌詞が日本語に訳され、中野忠晴氏が歌い、ヒットしました。



聴いていると、<Kreisler も、実はこんな曲を作っていたかも知れない>なんて想像してしまいます。

この曲を検索していたら、偶然こんな曲も見つけました。題名は、<ドニャ・マリキータ(Dona Mariquita)>。



20世紀初期のスペインの歌謡曲です。20世紀初期に活躍したスペインのメッゾ・ソプラノ歌手Conchita Supervia やソプラノ・レッジェロ歌手のElvira de Hidalgo 、またイタリアのリリック・テノールのTito Schipa 等も歌っていたかも知れないと感じさせる歌です。

日本では、偶然にも<In einer kleinen Konditorei>と同じ1935年に紹介され、淡谷のり子女史が歌ってヒットしました。



優れた作品は、時代を超える事を実感します。

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水色のワルツ [音楽]

僕は普段はヴィオラ奏者ですが、当然ヴァイオリンも弾けるので、自宅でプライヴェートレッスンを行っています。生徒は一人ですが。その方は、とても熱心にヴァイオリンに取り組んで下さるので、こちらも熱心に稽古をしています。今、その方は高木東六作曲(歌詞は藤浦洸)の<水色のワルツ>を練習しています。生徒さんが持っている<ポピュラーヴァイオリン曲集>の中にこの曲が入っていて、偶然それを僕が選んだのですが、生徒さんのお好きな曲らしく、上手く弾けるようになりたいと、頑張ってさらってきて下さいます。僕もそれに応えるべく、上手く弾くコツを身に付けられるように、丁寧に指導しています。

<水色のワルツ>は、昭和歌謡ですが、クラシック的なメロディを持つので、クラシックの声楽家の方にも屡歌われる曲です。僕もこの歌が好きです。



この歌を作曲した高木東六氏は、生前ロシア正教会信徒だったそうです。この歌のメロディにロシア的な雰囲気を感じるのは、その所為かも知れません。信仰心が、その作風に現れるって素敵だな、と思います。

僕がそのメロディにクラシック的要素を感じる昭和歌謡に、<アザミの歌>という曲もあります。



クラシック音楽にどっぷり浸っていると、軽音楽・ポップス・歌謡曲等を軽視しがちになりますが、そのジャンルの音楽にも、人を感動させる曲が多くあります。柔軟な感性を持って、どんなジャンルの音楽も味わいたいですね。

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Patricia Petibon の Rosso [音楽]

昨晩、久し振りに Patricia Petibon の<Rosso Italian Baroque Arias>の CD を聴き直しました。一曲目の<Quando voglio>が始まると、僕の周りの空間が、一気にバロック前期のものに変わりました。最近、疲労感が強く、何をするのも億劫だったのですが、この時ばかりは、気持ちが高揚しました。Petibon の溜息や語り声に近い声を交えた歌に、魅了されている僕がいました。

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やはり、Baroque は、人間の生々しい息遣いを感じさせるものであるべきだと思います。人間の感情は、歪です。それを音楽として表現するには、的を得た箇所で歪な要素を入れる必要があると、僕は思います。そうする事によって、音楽に生きた人間の血が脈々と流れ、その音楽は人を刺激するものとなると思います。

Baroque の歪さに、しっかり目を向けたい、そう思うこの頃です。

arata

百万本の薔薇 [音楽]

古楽やクラシック音楽を立て続けに聴いていると、時々一寸軽音楽やポップスなどを聴きたくなります。最近、僕が良く聴くポップスは、1983年に発表されたロシアン・ポップス<百万本の薔薇>です。

貧しい画家が、或る女優に恋をし、彼女への愛を表す為に、家や持ち物をすべて売り払い、彼女が滞在している家の前の広場を薔薇で埋め尽くした。そして、貧しい画家は、彼女の滞在先に家の傍で、彼女が窓から広場を眺める様子を見ていた。女優は、彼の存在に気付く筈もなく、暫くして、その場所から別の町に移った。画家は、それでも、幸せだった。

こんな内容の歌です。今から27年も前に発表された歌ですけど、何故か、僕の心を惹きつけます。



当時、ロシアのポップス界の大御所 Alla Pugacheva が、歌って大ヒットしました。

日本では、加藤登紀子が歌って、ヒットしましたね。



この歌には、元歌がありました。それは、ラトヴィアのポップス<マーラの与えた人生>と言う歌です。この歌は、ラトヴィアの歴史を3代の親子をの人生に擬えて作られた歌で、マーラとは、ラトヴィアの守護聖女だそうです。<マーラが与えた人生>は、1981年頃発表され、大ヒットしました。それが当時のソ連にも伝わりましたが、ラトヴィア語とロシア語は全く違う言葉なので、ロシア人には、この歌の内容が解らない。そこで、新しいロシア語の歌詞がこの歌のメロディに付けられたわけです。

<マーラが与えた人生>は次のような歌です。

マーラは娘に生を与えたけど幸せはあげ忘れた子供のころ泣かされると
 母に寄り添って
 なぐさめてもらった
 そんなとき母は笑みを浮かべてささやいた
 「マーラは娘に生を与えたけど幸せはあげ忘れた」


 時が経って、もう母はいない
 今は一人で生きなくてはならない
 母を思いだして寂しさに駆られると
 同じ事を一人つぶやく私がいる
 「マーラは娘に生を与えたけど幸せはあげ忘れた」


 そんなことすっかり忘れていたけど
 ある日突然驚いた
 今度は私の娘が
 笑みを浮かべて口ずさんでいる
 「マーラは娘に生を与えたけど幸せはあげ忘れた」



上の動画はラトヴィアのポップス歌手 Aija Kukule が歌っている<マーラが与えた人生>です。

<百万本の薔薇>も<マーラが与えた人生>も、歌詞こそ違え、愛の重要性を訴えている歌だと思います。愛を忘れたくないですね。

arata

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